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青年トルコ人革命

青年トルコ人革命の担い手となった「青年トルコ人」運動は、1890年代の初めに起こったが、アブデュルハミト2世の度

重なる弾圧を受け、1896年にはイスタンブル支部が壊滅してほとんど国外での活動を余儀なくされた。しかも国外では

アフメト・ルザの中央集権派とプレンス・サバハッティンの地方分権派をはじめ、様々な路線対立があって運動の統一

ははかれない状況で、1900年代の初頭には分裂し運動は停滞していた。

ところが、1905年に隣国ペルシアのガージャール朝で立憲革命が起こって専制体制が終わったことや、憲政を導入した

日本が日露戦争で勝利したことなどに刺激されて憲政復活の運動は勢いを取り戻し、国外ではなく国内に憲政復活を目

指す組織が再建されはじめるようになった。

同じ頃、マケドニアに駐屯する第3軍団の士官学校出身の青年将校たちの間には様々な不満が渦巻いていた。1903年にマ

ケドニアの自治を求める内部マケドニア革命組織によってイリンデン蜂起が起こり、この結果オスマン帝国はベルリン

条約に基づくマケドニアでの内政改革の実施を諸外国に対して改めて約束させられたが、まずこのような内政干渉に対

する不満があった。また自治や独立を目指す勢力との戦いの最前線に配備されているにもかかわらず、給料の遅配や兵

器の不足が常態化していることへの不満もあった。さらに、アブデュルハミト2世が兵卒からの叩き上げの将校を重用し

、士官学校出の将校を冷遇していることも大きな不満となっていた。

第3軍団の青年将校たちはこれらの不満や現状への危機感から、オスマン帝国の進歩のためには憲政復活の必要性がある

という思いをより強くすることになり、サロニカの郵便局員タラートが組織した秘密組織「オスマン自由委員会」に参

加するようになった。「オスマン自由委員会」は第2軍団の所在地であるエディルネにも支部を作り軍内部の支持者を増

やす一方、パリの「統一と進歩委員会」のアフメト・ルザのグループと接触し、1907年には名前を改称して統一と進歩

委員会のサロニカ本部という位置づけを得た。こうして「統一と進歩委員会」は国内に再び大きな基盤と組織網を有す

ることになり、憲政復活の運動を進めていくこととなる。

革命の経過
1908年7月3日、統一と進歩委員会のサロニカ本部に属する軍人のニヤーズィやエンヴェルが率いる部隊がサロニカなど

のバルカン半島諸都市で武装蜂起した。

この時期に蜂起した理由の一つに、同年にイギリスのエドワード7世とロシアのニコライ2世が会談した際にマケドニア

問題について話し合われたことが挙げられる。この会談の真の目的がオスマン帝国の分割であると考えた青年将校達は

、このまま専制が続けば両国主導の帝国解体が起こりうるという危機感を募らせ蜂起に至ったと言われている。また、

一説には蜂起計画がアブデュルハミト2世のスパイに察知されたことを知り、処分が下る前に先手を打つべくなし崩し的

に蜂起につながったとも言われている。

アブデュルハミト2世は即座に鎮圧を命じ、アナトリアから鎮圧部隊を向かわせたが、鎮圧部隊が反乱部隊側に寝返ると

いう事態が発生する。これによってアブデュルハミト2世は武力による鎮圧を諦め、騒乱の沈静化のために7月23日に一

転して反乱部隊の要求をのみ、憲法の復活を宣言した。下院選挙の結果、同年12月17日には下院も再開されて武装蜂起

の目的であった憲政の復活が果たされた。この、武装蜂起から憲政の復活までの一連の流れを「青年トルコ人革命」と

呼び、これ以降のオスマン帝国の政治体制を第二次立憲制と呼ぶ。


『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

青年トルコ人革命その後の混乱についても次回勉強したいとおもいました。

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2009年11月26日 21:11に投稿されたエントリーのページです。

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